父の顔
9月7日、父が他界した。
先月、年内はもたないだろうと主治医から聞かされていたのだが、そこから1か月も経たず急逝した。癌が骨に転移し、そのスピードがかなり速かったそうだ。
連絡を受け病院へ向かったものの、死に目には会えなかった。
穏やかな死に顔だった。
深夜、葬儀屋さんの車で帰宅。仏間に横たえられた父の顔を見ていた。
翌日、翌々日、親戚や近所の人々が弔問にやってきた。その間、弔問客の応対をしながらもやはり父の顔を見てしまう。
このエリアで亡くなる人がたまたま多かったようで葬儀会場の予約や火葬場の予約が混んでいたため、父の死去から丸2日を挟んで通夜、その翌日に葬儀ということになり、通夜の前日に親戚だけで仮通夜。
現在、通夜を終えた晩にシティホールに泊まり込んで線香の番をしている。もうすぐ明け方だ。
控室が用意されており、俺と甥が待機してたまに線香の様子を見に行くのだが、すぐそばに置かれた父の棺を覗き込み、顔をじっと見てしまう。
あと半日ほどで火葬されてしまう父。もうすぐこの顔を見ることが永遠に出来なくなってしまう。そう考えると時の経つのも忘れて見、話しかけていた。
この4日間、父の顔をどれほど見ただろうか。この人生で、こんなに父の顔を見つめたことなど無い。
20年くらい前に家族で写真を撮ったことがあるのだが、一緒に写ったのってそれが最後だったかも知れない。
もっともっと、一緒に写真を撮ればよかった。母や実家の家族と、今後は写真を撮れれば嬉しいな。きちんとプリントして、アルバムに貼っていきたいという気持ちが強くなった。
家族だけではなく、親しい人達ともだ。
父の死後、父や母それぞれの昔のアルバムを何冊も見た。60年とかそれくらい前のモノクロ写真、ぶっちゃけ特によく撮れているとかでもない。でも、すごく味わいがあるのだ。単に古いからそう感じるだけかも知れないが、今この瞬間に撮った写真も年月が経てば古くなる。月日が経てばいいというわけでもないが、何もやらなければ何も残らない。内容にもよるんだけど。
アルバムの中の、モノクロな若き日の父。現在の自分からすれば親子ほど年下な父。でも今の自分よりもずっとしっかりしてるのが写真からも分かる。
一生、追い越せない。追いつけそうにもない。ずっとその背中を追うことしか出来ない。
だが、棺の中の父は、もう顔しか見られない。背中は見られない。
父の背中が小さくなってきたなと思ったのは近年だが、その背中を最後に見たのはいつだろうか。
もうすぐ朝が来て、午後から葬儀。そして火葬。
それまでは、もう少し顔を見よう。
死に顔を撮影しようとは思えないが、目の前で見られる顔は最後まで見届けよう。